かまちんblog ~夢への第一歩~

~かまちんの知恵袋~ ⁡ 日々勉強や経験を積んでいく中で感じたことを正直に書き留めていくブログ。これは議事録。

鎌谷history①〜治療家としてのはじまり〜

 

今日でMJを卒業した。

 

増田塾に出会ってから約4年。

増田先生の存在を知ってからはもう8年以上になる。初めはマーケティングの面白さから深くなるにつれて生き方や自分を知るきっかけとして、長く関わらせていただいた。

 

ここ最近は決断をする事が多い。

成長のためでもあるし、自分へのコミットのためでもある。

 

 

東京に出て来て10年6ヶ月。

独立をしてから3年6ヶ月。

 

このタイミングで一度自分の歴史を

振り返って記録したいと思う。

 

 

 

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2011年 10月

高校3年生の頃、僕は鹿児島県立水産高等学校で釣りや海の事に夢中になっていた。ちょうど進路を決めるタイミングで、親友を誘い福岡の「ヒューマンアカデミー」に受験した。

 

ここは、趣味の釣りを仕事にできるとの事で

釣具の開発、釣りのプロとしての道など当時の僕には魅力的な進路だった。

 

その数ヶ月後、合格の通知をいただき奨学金の申請をしたところ、親の都合で保証人になれる人がいない事が判明した。

 

もう卒業間近のことだったので、母親が、お世話になっている親戚にお願いしたり、自分が1歳の頃すでに離婚をしていた父親の実家にわざわざ電話をしてみたり。

 

でも結局ダメだった。

 

その当時は母親の都合で希望の学校に行けない事に対し、反抗的な態度で文句を言ってしまったが今となってみると本当に苦しかったのはやりたいことをやらせてあげれない母親の方だったんだろうと思う。母親がその件で泣いていたことを後から知った。

 

周りの友達は進路がきまって、未だに決まってないのは僕だけ。担任の先生も今更。と諦めてしまっている。

 

自分の進路が途絶えたことに対して、僕はむしゃくしゃしていた。

 

1番は福岡の学校を誘った親友に対して。

結局1人でいかせてしまう事の申し訳なさ。

 

 

別に進路なんて決まんなくてもいい。と開き直り高校最後の冬はなんでもやってしまえ。と気持ちも荒れていた。

 

たまたま、当時付き合っていた彼女からの一言が今の仕事につくきっかけになった。彼女は作業療法士を目指していた。

 

「なおやくんはおじいちゃんとおばあちゃん好きだからマッサージの仕事とか向いてるかもね」

 

それもありだなー。と

母親と電話したときにポロッと伝えてみた。

 

すると

 

1ヶ月くらいたった頃知らない番号から

しつこく電話がかかってくる。

 

なんだよ。しつけーな。と無視をする

 

それでもかかってくるので

 

水族館のデート中、たまたま出てみたところ

 

塩田さんと名乗る紹介会社からの電話だった。

 

「ご登録いただきありがとうございます♪是非一度鎌谷さんにお会いして見たいです。素敵な仕事が紹介できると思います」

 

ん、、なんのことだろう。

と初めは思ったけど

徐々に話が理解できてきた。

 

勝手に母親が登録をしていたのだ。

 

しかも東京(°_°)!

その当時、母親と兄は

ある事情から東京に住んでいた。

 

そして、僕自身もたまたまタイミング良くバイクの免許の合宿に行くため、費用の安い茨城に行く計画をしていたところ。

 

空港に迎えに来てくれるとのことだったのでそれなら。と顔合わせをすることになった。

 

 

2012年1月

初めての東京。

先程も説明したが、この頃には母親と兄は1年近く東京で生活をしていて、僕は祖父祖母と暮らしていたので久しぶりの家族の再会だった。

 

空港で塩田さんとの挨拶。

印象はあまり覚えていないけどとても優しく

初対面と思えないような気さくな人だった。

 

「是非鎌谷さんに紹介したい会社があるので合宿が終わった後にでもよかったら見学に来ませんか?」

 

見学なら行ってみます!と約束をし

1週間の合宿が終わり免許をとったあとに

田無にある接骨院へ見学に行く事になった。

 

特に内容を理解しないまま接骨院を案内され見学をした後、なぜか最後に代表が登場し面接のような形に。

 

あれ、今日は面接だったっけ?と

内心では思いつつ、流されるがままに話を聞いた。次第に代表の熱い想いに惹かれはじめ、

単純な僕はこの仕事をしてみたい!

と思うようになっていた。

 

しかし、接骨院で働くには免許が必要。

1年間でかかる学費は120万。

その他費用も含めて3年間で合計420万近く。

 

奨学金を借りれない自分は学校に

通うことすらできない、、、。

 

そんな自分へ代表は

「毎月10万貯めれば1年で学校いけるだろ」

と背中を押してくれた。その覚悟があるなら

家賃も補助してやるから。と

 

その1つのきっかけが僕にとってはとても大きく

人生を変えるターニングポイントになった。

 

と今になって思う。

 

 

「東京で5年間は誰よりも勉強して、結果残して鹿児島で開業をする!」と覚悟し

 

鹿児島に帰った僕はとにかく周りにいいまくった。祖父祖母、友達、釣りのおじさん、彼女。

 

彼女とは別れる事になった。応援してくれてたのに今となれば申し訳ない。

 

 

2012年3月

ついに旅立つ日が近づいてきた。

次第に寂しさが訪れ、同時に今まで関わってくれた人 友達、家族、地元に感謝する気持ちがうまれてきた。

 

特に高校時代はザ・青春を味わっていて毎日が刺激的で凄く楽しかった。

 

なによりも母親や兄ががいない間、ずっと面倒を見てくれた祖父母。警察にお世話になった時、彼女が初めてできた時、友達と喧嘩をした時、辛い出来事があった時。いつも暖かく見守ってくれていた。この2人への感謝は大きく、この時に決めた目標が、その後開業するまでの1番の支えになった。

 

「5年後鹿児島に開業をしてじいちゃんとばあちゃんの身体を良くしてあげて恩返しをする」

 

これも東京に来てからとにかく言い続けた。

当時関わっていた人なら大体の人が

知っているだろう。笑


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そんなこんなで大好きだった地元を離れ、

誰も知り合いがいない東京の地へ。

 

〜続く〜